さて、去年の12月にお世話になった奈良響に今回もお世話になることになりました。ご好意に甘えてばかりいると、このサイトのバックをまっ黄色にしなくちゃならなくなるので、甘えるのももうこれっきりにしますが、前回の演奏会がとても良かったので、今回も非常に期待して足取りも軽く奈良県文化会館へと向かいました。
始まるなり非常にしっかりとしたアンサンブルに驚きました。各セッション間のまとまりが比較的良く、メロディをきちんと歌っているところはとても感心しました。
しかしなぜか弦と比べて管がほんの少しだけ遅れているような気がしました。どうしてかな?
次は前川さんをソリストに迎えてマリンバ協奏曲となりました。
この曲は非常に新しい曲ですが、現代音楽らしいギスギスしたところはなく、それでいて現代に生まれた曲らしいリズムに溢れたものでした。
それを前川さんが非常にたくましい姿で力強く演奏していました。はじけるビートと聞かす旋律が織りなった楽しい演奏でした。
ただ湿度の影響かマリンバの音が澄んでなく、ややぺちゃっとした音だったのが悔やまれます。前川さんは熱演だっただけに少し残念です。
知らない人は知りませんが、シューマンは精神病院で生涯を閉じました。フロイトが精神の科学的分析を始める以前ですから、いくら今では精神病に理解がある欧米でも当時は差別・隔離の対象だったと思います。(詳しいひと教えてください) ですから病院と言ってもその実情は私達がイメージするもろ“負”のものだったと予想するのですが、どうでしょう? (げんに奥さんのクララは一度もお見舞いに行きませんでした。すなわち女性が足を踏み入れるような場所ではなかったのです。……詳しいひと教えてください) ですからシューマンが早死にしたのは、病気(躁鬱病)のせいではなく、精神病院に入れられたことが直接の原因だったと思います。
この末期のせいで彼の作品のいくつかは今なお正当な評価が得られずにいるものがあります。その代表がヴァイオリン協奏曲です。この非常に晦渋ながら素晴らしい(めちゃくちゃ苦いが食えば旨い)曲は病院に放り込まれる(自殺未遂をする)直前の曲だったため、奥さんや親友から「キチガイが作った曲」として長い間封印されてしまいました。
これと同じ境遇なのが今日取り上げられた交響曲第2番です。なんせシューマンが作曲後、「これを作って病気が楽になった。この曲には幾分私の精神状態が表われているかもしれない」と語っちゃったため、「躁鬱病の精神状態を表現した曲」とレッテルが貼られ、「聞いてるだけで憂鬱になる」(某UNO氏談)と良く聞きもしないで語られる羽目になってしまったのです。
実際、心を澄まして聞いてみると、ベートーベン的な苦難との戦いを表す闘争的な第1楽章から、苦難との融合に成功し高らかに勝利を歌い上げるクライマックスを描く内容を持ち、また序奏部での弦の動きが全曲を統一するモチーフになるなど、技巧的にも非常に充実しているもので、この曲には傑作の称号を与えられても良いと思います。
もうひとつシューマンの管弦楽曲に関しては言われることは「オーケストレーションが下手」というのがあります。
この演奏会のプログラムにもありましたが、シューマンはベルリオーズのオーケストレーションを称賛していて、自身の交響曲を出版する際にも実際耳にしてから一度校正を行っています。(第1番冒頭のトランペットや第4番の改作などが良い例) ですから一般の音楽人が「上手い」と思うオーケストレーションに直そうと思ったらいくらでも直せたはずです。
このことからシューマンはああいう中身がぎっしりと詰まりすぎたオルガンのような音が欲しかったのであり、これで満足していたということでしょう。
ここで彼のピアノ曲を思い浮かべてみると、このひとのピアノ曲は和音における内声のちょっとした変化によって、微妙な感情の襞を表現しているではありませんか。オーケストラも同じなんです。
つまり絶えず鳴り響く音の中で、木管や中低弦などの微妙な変化による色彩の移ろいを目指していると考えて良いのではないでしょうか。
ですから私はシューマンのオーケストレーションはそのままで演奏してもまったく差し障りないものと思います。(プレイヤーは死ぬほど大変らしいですけど)
前置きはこの辺りにしておいて演奏のほうに移りますが、まず第1楽章の出だしのトランペットがちょっとびびってしまいました。惜しい。音量なんか気にせず、思いきって吹いて欲しかったです。ただ、この冒頭はプロでもびびるものなので悲観することはないと思います。
それよりも気になったのは、この曲が古典的なフォルムを堅持した交響曲なのに、その部位(例えば主題提示部や再現部など)の入りが明確に行われていなかったことです。結果のっぺりと曲が進行する印象を持ってしまいました。このことは螺旋階段を登るようにだんだんと高まっていく終楽章では致命的でした。
またシューマンで非常に気を使う楽器間のバランスもオケの実力から比べてやや練りこみが足りないように感じました。この内声の微妙な色合いがシューマンの肝なだけに(やってる方はものすごく疲れるでしょうが)無念でした。
指揮者も指示のほとんどを第1Vnに割いていましたが、第1Vnなんて大部分がメロディなんだから表情付けはコンミスに任せて、もっと大事な内声のコントロールを中心に指揮をするべきでした。
オケのほうは非常に集中力の高まった熱演で、第1楽章が終わったときには拍手が起こりました。(そう言えばヨーロッパ室内管弦楽団のときも第1楽章で拍手が起きました。ひょっとするとこの楽章、思わず拍手をしたくなる構成になっているのかもしれません)
終楽章のコーダでは渾身のフォルテシモが鳴り響きました。とっても素晴らしいコーダでした。でも最後だけでかい音を出せば良いだろうって言う考えはいただけません。
それでもやっぱり最後は大きく盛り上がったので、曲が終わると同時に大きな拍手が会場から沸き起こりました。
だんだんと拍手が弱くなり、もうこれでおしまいかなと思った時に、辻さんが小走りでステージに上がり、アンコールとなりました。
バッハ「目覚めよ、と呼ぶ声がきこえ」(編:バントック)
これはバッハの曲を2管編成用に編曲したもので、編曲者はイギリスの作曲家で「ケルト交響曲」「ヘブリオーズ交響曲」「異教の交響曲」などの作品があるバントックでした。
ここでバッハの音楽に心地よく浸っていると、メロディに合わせて口笛がどこからともなくぴーひゃらら。(本当は場所をほぼ特定できたけど)
……なに考えてんだ。あんたの口笛なんか誰も聞きたくないって。
これが上手かったら、まあ我慢できるがご多分に漏れずヘタクソだったので、頭を抱えてしまいました。アンコールだからって良いのでしょうか? 私はそうとは思えません。
今日の演目より、前回やったシベリウスの方が技術的に難しいと思うのですが、演奏を聞いて受けた感銘は残念ながら前回のほうが遥かに良かった結果となりました。大変申し訳ありませんが、これは指揮者の力量が如実に表われてしまったのだと思います。
……こんな文章しか書けなくてごめんなさい。
総じて、オケを生かすも殺すも指揮者次第だと痛切に思った演奏会でした。
帰る道すがら近鉄奈良駅横のアーケードを抜けたのですが、ひとりの男の子がギターの弾き語りをやってました。
驚いたことにそれがとても上手いのです。荒削りだったのですが、あどけなさを残す少年らしい丸い声でなんとも言えない雰囲気があったのです。一瞬、新人のプロモーションかと思いました。この子に比べたら天王寺駅前にたむろして(集まって)いる奴らなんかただの騒音以下でした。いや〜、あんなストリートミュージシャンもいるんですね。
その他、奈良銀行前に白虎社のような全身白塗りのふんどしメンがいたり、いろいろ楽しい日曜でした。たまにはこっち方面に出てくるのも悪くないと思いました。
さて次回はジャン・フルネさんと大フィルによるラテン系音楽です。
高齢にもかかわらず頻繁に来日してくれるため、ありがたみを感じる人が少ないですが、その実力は決して軽んじられるものではないと思います。楽しみにしております。