19世紀末のウィーンで活躍した3人の作品が並んだ演奏会です。個人的にややプッシュしたいツェムリンスキーを取り上げていることが嬉しい限りです。さすが、いつも心憎い選曲をする芦屋響です。
ず〜っと以前、シベリウスの交響曲第7番が取り上げられたとき(98年)に行こうかと思って行けなかった以来、いつかは聞きに行こうと決めていたのですが、今回やっと実現できた形となりました。
この演奏会は全席自由でしたので、2時過ぎにシンフォニーホールへ到着して入場券を座席券と交換しました。中央の席が取れて大満足。
その後シンフォニーホールの裏へ廻ってチケットセンターへ。12月29日の佐渡さんの第9のチケットを購入して、これまた大満足。良い気分でエントランスをくぐりました。
ロビーで芦屋響によるマーラー「復活」のCDを購入して座席に身を沈めました。まだまだ時間もあることだし、じっくりとプログラムを読むこととしました。
で、はたと気が付いたのですが、今日取り上げられる3人の作曲家、みんな名前が“A”なんですね。ちなみに
アントン・ウェーベルン
アルバン・ベルク
アレクサンダー・ツェムリンスキー
です。
点描で描かれた細密画のようなこの人の作風ですが、この曲はまだシェーンベルクに出会う前に書かれた習作的作品で、爽やかなロマンに溢れた清々しい曲です。それでもウェーベルン特有の静けさはしっかりと聞き取れるあたり面白いです。
ちなみに日本初演は1975年に朝比奈隆&大阪フィルによって行われています。
弱音器を付けた弦による密やかな響きから始まりましたが、ややモチッとした手触りながらしっかりとしたアンサンブルはこれがアマチュアのオーケストラであることを完全に忘れさせるものでした。
寄せては返す波のように音楽はゆっくりと高鳴って行きましたが、澄んで清潔な響きが非常に心地良いものでした。
冒頭の雰囲気を回帰しながら静かに曲が終わると、充分に静寂を味わってからおもむろに拍手が起こりました。観客の入りは少なかったのですが、その反応は素晴らしかった。演奏の出来に合い相応しいものでした。
パートやらプルトが大きく入れ替わって2曲目となりました。
この曲はベルクが残した唯一の管弦楽曲です。この曲(1915)の他にオケを使った曲はアルテンベルク歌曲集(1912)、室内協奏曲(1923-25)、演奏会用アリア「ぶどう酒」(1929)、ヴァイオリン協奏曲(1935)しかありません。またベルクはこの曲を作曲後、第1次世界大戦にかり出され、終戦まで作曲からはまったく遠ざかってしまいました。復員後取りかかったのが、代表作「ヴォツェック」です。
ちなみに日本初演は61年にバーンスタイン&ニューヨークフィルによって行われました。(余談ですが、上記にもあるアルテンベルク歌曲集はウェーベルンの「夏風の中で」と同じ日に朝比奈&大フィルの手によって初演されています)
演奏の方は団員の気合いが客席にまでビシビシ伝わるもので、これが今日のメインかと思わせる程でした。何より複雑で込み入った構成を持つこの曲を一体感もって演奏する完成度には驚きました。
また終局に向かってグイグイと盛り上がっていく様には驚愕さえ覚えました。
曲が終わると無調音楽にもかかわらずワッと拍手が起こったことも演奏の出来を表していたと思います。
ツェムリンスキーの代表曲といえば叙情交響曲だと思いますが、それすら聞いたことのあるひとは少ないでしょう。
簡単に彼を評するならば、「どこかで聞いた感じ」と言えるでしょう。CDが出ていて比較的良く聞ける曲でも、交響曲第2番はブラームスの交響曲、交響詩「人魚姫」はリヒャルト・シュトラウスの交響詩もしくはマーラーの交響曲第1番、叙情交響曲はマーラーの交響曲「大地の歌」にそっくりです。
それだけなら唯のパクリ野郎ですが、彼の場合は若々しくて広々とした印象を受けるオーケストラの色彩感とウキウキとした気分にもさせる優しいメロディーラインが大きな魅力になっているのです。
シェーンベルクが「やがて彼の時代がやってくるだろう」と語っています。彼の曲には独善的な魔力が薄いのでそれはないとしても、末永く密かに愛されるマイナーな作曲家としてその名は残っていくと思います。
ツェムリンスキーの多くの曲はそのスコアの所在が解らなくなっています。それはナチスドイツが彼の音楽を「廃退音楽」と決め、演奏禁止にされたことと、アメリカへ亡命してすぐ死んだためアメリカで知名度を得られなかったことが上げられます。
この曲も1905年に初演され好評を得ました(「魅力がない」と切って捨てるひともいました)が、作曲者がこれを交響曲へ書き直すために再演を中止したため、その後演奏されることはありませんでした。1978年の調査ではこの曲のスコアは紛失したと報告されていました。
しかし1974年頃から始まったツェムリンスキーの再評価が進むにつれ、失われた楽譜の調査も根気よく続けられ、1980年頃にウィーンとワシントンでバラバラに見つかった変ホ長調の交響曲がこの「人魚姫」だったという結論に達しました。
そして1984年にウィーンで再演され、86年にシャイーが録音してやっと世間にこの曲の存在を示せるようになったのです。
(以上はリッカルド・シャイー&ベルリン放送交響楽団のCDを参考にしました)
CDはシャイーの他にトーマス・ダウスガード&デンマーク国立放送交響楽団のものしか持ってないんですが、他にあります?
演奏の方はこれまた充実したもので、海の懐に抱かれるような冒頭から演奏に引き込まれてしまいました。
特にコーダでは、泡となって消えてしまわなければならなかった人魚姫の哀しみをすべて優しく受け止めてなお悠久たる姿を見せる海の懐深さを表現していて、ちょっと胸にジンと来てしまいました。
まさかツェムリンのスコアにこんな響きが隠されていたとは、露とも思いませんでした。(まあ中間緩いところもありましたけど、帳消しですね) 今日は聞きに来て、良かった!
余韻が消え静寂を充分堪能した後大きな拍手が会場を包みます。お客の数は確かに少なかったですが、指揮者のポンテツが芦響のメンバーを次々と立たせていくたびに大きな拍手が湧き起こりました。
その鳴り止まない拍手に応えるためポンテツとコンマスが手短に打ち合わせを行うと、急遽アンコールが決まりました。
交響詩「人魚姫」第3楽章よりコーダ
指揮台から団員へ何小節目から始めるかサインを送りましたが、半分ほどのひとがよく解らず、隣近所に聞きまくってました。特にティンパニのひとは演奏が始まってもピンと来なかったらしく、譜面をめくって焦りまくってました。
新ウィーン楽派以降の音楽について、今日の指揮者本名さんの手腕は大変素晴らしかったと言えるでしょう。音楽の体裁を整えるだけで大変なのにそこから何かの感情を引き出すあたりは見事としか言いようがありません。
他の指揮者では高関さんが振る現代曲の方が曲に相応しい精緻さと構成感を持って聞かせてくれるのですが、感情のうねりの表現には重きを置いていない演奏とは対称的です。
しかし本名さんの方もその感情のうねりがどの曲を振っても単一的に聞こえてしまうので飽きが来やすいのも事実です。(その点高関さんは曲に則した表情を提示してくれます)
それはポンテツさんの今後の課題だと思います。
総じて、なかなか聞けない曲がなかなかの演奏で聴けて大満足だった演奏会でした。
さて次回は大フィル第351回定期で、レオンカヴァッロの歌劇「道化師」全曲です。
オペラ通ではスタンダートな曲だそうですが、今回初めて耳にしますので楽しみにしております。