一年ぶりのアンサンブル・シュッツの演奏会です。去年はミサ・ソレムニスでしたが、今年は第9シンフォニーです。この曲は確かに合唱が入りますが、成功の鍵を握るのは明らかにオーケストラです。アンサンブル・シュッツの出来がとても重要だと思います。
いずみホールの横にある大阪城ホールではゆずのコンサートが開かれていました。そのため大阪城公園には女の子たちがたくさんたむろし、このクソ寒いなか電灯の下で酒盛りをしてるグループもありました。
「やっほーっ、ハニー達!」
……え? 去年と同じ手を使うな?
それにしても最近のはやりでしょうか、大阪城ホールの周りにはギター持ったあんちゃんがウヨウヨいましたね。ほとんどが「帰れ!」と言いたくなるくらいみっともないのばかりでしたが、なかには上手いのがいて何人かのギャラリーを集めていました。
私も少し立ち止まって聞いていましたが、そのデュオは場所柄ゆずの曲を歌っていました。彼らは楽器の腕も良く、歌もピッチの定まったきちんとした歌い方をしていましたが、まるでゆずの安っぽいコピーでそこにはオリジナリティーのかけらもありませんでした。
聞いていて感じたのは“うまい”と“すごい”はまったく別のものだと言うことです。いくら技巧的に上手でも心に迫ってこなくては存在する価値がありません。
もし仮に明日から音楽がこの世から消滅してしまっても「残念ね」と思うくらいで、実生活は何事もなかったように流れていきます。所詮音楽なんてこの世になくても困らないものなんです。
だからこそ、音楽を職業としている人は自分の存在意義を賭けて演奏して欲しいと思うのです。
私は4年ほど前に十三のガード下で座り込みギターを弾いていた青年を忘れることができません。彼の歌うミスチルが今ここで歌わなくては自分が消えていってしまうかのように聞こえて今も私の脳裏に焼き付いています。
……むむむ。いかんなぁ、最近どうも肩に力が入っちゃう。音楽は気楽に、明るく楽しみましょう。
この曲は交響曲第5番、6番と同時に初演されたが、あまり有名ではない。しかしピアノ独奏とオーケストラそして合唱が三つ巴となる構成は独創的で、また歌われる歌詞やそれに付けられた旋律が後の第9を彷彿とさせる点でも重要な曲だ。
まずピアノが序奏の後、長いソロでテーマを出し、それを即興的に変奏していく。やがてオーケストラがピアノに合いの手を入れる形で音楽に参加してくる。
やがて弦のトップによる弦楽四重奏のあとトゥツィーになるが、ここの弦楽四重奏が音色に透明感があり美しく決まったため、この後オケの調子がグンと良くなった。
しばらくはピアノ協奏曲風に進行するが、曲冒頭の序奏が回帰するとソプラノのソロがパッと登場する。この後はピアノ、オケ、コーラスが入り乱れて明るく輝きに満ちた音楽が展開される。(ベートーベンらしくない明るさが今一つメジャーになれない原因かもしれない)
オケとコーラスの集中力が素晴らしく、クライマックスに向かって大きな盛り上りを見せた。
しかし残念なことに曲が終わらないうちに拍手を始めた人がいたため、他の人が拍手をするタイミングを完全に失って、ややしらけた力のない拍手が起こってしまった。見事な演奏だっただけに無念だった。
これに代表されるように今日のお客は情けない人が結構いたように思える。遠慮なしに「んっううん!」と思いっきり咳払いをするオッサンがそこかしこにいたり(第9の終楽章で歓喜の主題が出る直前の静けさでもやりやがったり)してちょっとウンザリとしてしまった。
休憩後、演奏者が全員ステージにそろうと前半に比べて女声パートの人数が増えていた。合唱幻想曲でのバランスでちょうど良いと思っていたのだが……。また独唱者の席が中央ではなく、ステージ左側に設けられていたのが目立った特徴だ。あくまでもコーラスが主役なんだと主張しているのだろうか。
今日の演奏には新ベーレンライター原典版を用いているが、聞いてみてその違いは解らなかった。てっきり『繰り返しは全てする』とか『“vor Gott!”でコーラスを残しオケの全パートが音を小さくしていく』とかやってくれると思っていたんだけどなぁ。
テンポ設定は古楽器の影響を受けたのか、メトロノーム指定を意識した速いテンポだった。しかし注意しなければならないのは、ベートーベンが存命していた当時のヴァイオリンは羊腸のガットを使用しているため軽い弓の力で音が鳴ったが、今のは鉄の弦を使っているため演奏には強い力が必要とされる。(その分大きな音が出せる) そのため速いパッセージを弾くとき古楽器よりも高い技術を要求され、上手く行かなかったら楽器が鳴りきらずメロディが息切れを起こしてしまうのだ。だからベートーベンが指定したからと言ってこれを鵜呑みにすると非常にセコセコとした音楽になってしまう。今日の第1,第2楽章がこれに当てはまる。アンサンブル・シュッツは編成が非常に小さい(弦が6人−5人−4人−4人−2人の2管編成)だけに弦パートのひとりひとりが重要になってくる。(その分木管楽器の動きがとてもよく分かる)
第3楽章はアダージョにしては速いが、前2楽章に比べると落ち着いて演奏できるため幾分マシだった。
この楽章ではもうちょっと瞑想的な深さを表出して欲しい。晴朗だけどさらさらと流れてしまって何も心に残らなかった。
終楽章に入ると、さすがに合唱が素晴らしい歌唱を聞かせてくれた。ピッタリと合った縦のライン、美しいハーモニー、確かな発音と発声、どれをとっても素晴らしい。ただ残念なことにこれだけのコーラスをオケが支えきることができていなかった。合唱の人数が多かったこともあって完全にオケを呑んでしまっていた。特にクライマックスのプレスティッシモでコーラスが歌い終わったあと、オケだけになると急に音がショボくなってしまった。
なんだか尻すぼみの印象だ。それでも会場に大きな拍手が湧き起こったのは合唱団の力だろう。
あとこれは大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団の根元的な問題かもしれないが、高音にバランスを振った構成が第9に合わないと思う。この合唱団は男声の17人に対して、女声はカウンターテノールも含めて47人もいる。そのため音色が非常に透明で清潔感があり、人間くささが希薄なのである。これは宗教曲をするのにはうってつけなのだが、第9のような世俗曲をするのには少々馬力が足りないのである。
今回パートナーのオケが力不足だったのだから、思い切ってコーラスの人数を減らした方がいい結果が生まれたかもしれない。少なくとも前半の合唱幻想曲の方がグットバランスだったと思う。(第9の方が演奏的に難しいというのも大きな要因ですが)
総じて、合唱だけが良くても仕方ないことを痛感した演奏会でした。
ホールのロビーで大阪コレギウム・ムジクム(アンサンブル・シュッツや大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団の母団体)自主制作のカセットとCDを買いました。物はベートーベンの交響曲第4番、9番(2種)、ブルックナーのミサ曲第2番、武満徹と柴田南雄の合唱曲です。売り子さんの手際の悪さは相変わらずでした。
興味がある方は大阪コレギウム・ムジクムのWebページで通販をしていますのでアクセスしてみて下さい。
……それにしても去年買ったカセットまだ聞いてないや。どうしよう。