大阪フィルハーモニーの創設者であり、音楽総監督でもあった朝比奈隆氏が2001年も終わりに迫った12月29日の午後10時36分に老衰のため永眠されました。93才でした。
後任選びもありますが、集客力・集金力ともに抜群だった御大去りし後の大フィルは前途多難でしょう。しかしここで、関西フィルを見習って、初心に還った人事・企画をして欲しいと思います。(ドンガラが大きい分、迅速にやんないと多分取り返しがつかなくなる)
御大が入院した際、東京オペラシティのブル3が演奏会自体中止になったことは今後の大フィルを象徴しているかと思います。
団員さんのサイトで、聞きたいのは朝比奈さんだけか? なんて不満が書いてありましたが、なにを今さら甘いことを、と思いました。お客の大部分は朝比奈隆の音楽だけを聞きに行くのであって、(特に東京では)大阪フィルは抱き合わせ商品にくっついてくるおまけみたいなものに過ぎないのです。言い方を変えれば朝比奈隆が東京で振ってくれれば、オケが大フィルだろうと、東京交響だろうと、新日フィルだろうと全くかまわないのです。(N響は例外でしょう)
大阪では若干事情が変わりますが、それでも関西唯一の4管編成を有するオーケストラというアドバンテージがあるからで、その前提の揺らぐことがあれば、今の地位も危ういものになるに違いありません。(経済も縮小傾向ですしね)
社団法人といえども自分たちの商品価値を強く自覚するべきだと思います。
一方、今後はCDの売り上げがまったく望めなくことによる直接的な収入減も大フィルにとって痛いことだと思います。
「面白そう」と思えば客は必ずコンサートに行きます。CDを買います。ぜひとも頑張って欲しいものです。
ファンの対応のバカさ加減については(この文章も含め)予想通りですし、指摘した所で直ったりしないので割愛します。
(尤も、金を出す方は何言っても基本的に自由だと思います)
―――こんなキッツイ文章、御大が亡くなってすぐになんか書きたくなかった……。
寒風が夕闇を吹き抜ける中、フェスティバルホールに到着した私にある掲示板が目に映りました。
「朝比奈隆が昨晩逝去いたしました」
……ウソ。
余りにも不意をつかれたこの訃報にしばらく呆然としました。私はこの時まで何も知りませんでした。
いつかは来ると思ってましたが、生きとし生きるものの宿命とは言え、この別れの知らせは余りにも唐突で、胸の中からあらゆる感情が崩れ落ち、全くの虚ろとなってしまいました。
ホールの入り口にはテレビカメラやカメラを携えた報道陣の姿があり、エントランスには軽い興奮の混じった緊張感が漂っていました。
なにか心にポッカリと穴が空いたまま座席に体を沈めました。
ステージを見ると、いつも銘々勝手に練習している大フィルの姿がありません。先に入場する合唱団の姿もありません。
やがて開演時間が来ると、指揮者の若杉さんと一緒に大フィルの面々が入場してきました。胸には喪章が付けられています。
全員が席についても若杉さんは指揮台に登らず、代わりにアナウンスが場内に流れました。
「すでに後存知だと存じますが、大阪フィルハーモニーの創設者、朝比奈隆が逝去いたしました。そこで会場の皆様のご承諾を得て、黙祷をいたしたいと思います」
ここで会場の全員が起立すると、静かに鐘の音がひとつ鳴り響きました。―――1分間の時が流れると、静かに若杉さんが舞台袖に退き、続いて打楽器奏者も一旦退場していきました。
大フィルの中には目に涙を浮かべるひともいました。
独唱陣はもちろん合唱団や打楽器奏者までがステージにいないので、何か追悼の音楽でもするのか(例えばベートーベン交響曲第7番第2楽章)と思っていましたが、そのまま第9が始まりました。声楽陣は第2楽章が終わった所でまとめて入って来ました。
深林の霧のようなトレモロから第1主題が威容を見せる第1楽章冒頭の力感が凄まじく、大フィル渾身の演奏でした。
若杉さんの指揮はオーソドックスで、全体的にゆったりとしたテンポを採り、どこにも破綻がない見事なフォルムは1時間ほどの時間安心してその音楽に身を浸らせてくれました。
特筆すべきは弦の見渡しの良さで、各旋律線を弦楽四重奏のように透き通る透明さで描ききっていたのでまったく別の曲を聞いている気がしました。これは弦セクションを古典配置にしたことがとても大きいと思います。
独唱陣はバリトンが「おお、友よ」での高音で声がかすれるなど、去年と全く同じで取り分けなにもありません。
合唱団はややパワーダウンしたのかな? 今までの水準から考えるとほんのちょっと残念でした。(レベルは高かった)
また去年は車椅子で参加していたお爺ちゃんの姿が見えなかったことも寂しいことでした。
最後の和音が充分に鳴り響くと、会場からはワッと拍手が起こりました。しかしここで無粋な「ブラボー」を飛ばす人はひとりもいませんでした。ただただ熱い拍手をステージに送るだけでした。
若杉さんはほとんど舞台裏に引き上げず、ステージ上でソリストのエスコートなどをしていました。
満場の拍手に何度も答礼をしていましたが、やがてオケが解散し、続いてコーラスが拍手のなか戸惑いながらも退場しました。拍手は最後のひとりがステージを去るまで送り続けられていました。
蛍の光はありません。
やがて舞台の照明が弱まると、会場の客も名残惜しげにホールを後にしていきました。
あまりにも個人的な話で申し訳ありませんが、本来はこの演奏会が当工房「コンサート道中膝栗毛」100回目のレビューとなる予定でした。しかし転勤でそうもコンサートへ足を運べなくなり、100回目は別の演奏会へと譲ることとなりました。その流れた100回目も「朝比奈隆の軌跡2002」の3日目に当たってましたので、何かお祭りでもしようかなと思っていたのでしたが……。
それも叶わぬこととなりました。
今年を振り返ると、2001年は公私ともに色々なことがありました。余りの辛さにへこたれそうにもなりました。
それでも何とかやって来れたのは、朝比奈御大の演奏会へは必ず行くぞ、という想いがあったからだと信じております。
まさに御大のコンサートで私は力を貰い、希望を貰いました。
最近になって実演に通い出したにわかファンでしたが、コンサート会場で御大の音楽を聞く私は確かに幸せでありました。
いままでのたくさんの感動、誠にありがとうございました。
ここでいくら感謝の言葉を述べたとしても、けっして言い尽くすことはできません。ただ、ただ、想いのすべてを込めてここに書き連ねることだけが、私に出来る精一杯のことだと思います。
御大ありがとう。本当に、本当に、ありがとう。