オケが音合わせも終わりステージに整列すると、指揮者のセゲルスタムさんが登場しました。ビア樽のようなぶっといお腹を揺らしながら、ゆっくりと指揮台に向かいます。ブラームスのようなヒゲをたたえた真ん中にアンパンマンのような優しげな顔があります。
胸に手をあて一礼するとクルリと背を向け、さっと指揮棒を上げました。
しかし、その出だしはオケに元気がなく、連日の演奏会に疲れているのかと思いました。それをセゲルスタムさんも感じているのか、何度もオケにあおりを入れます。それにオケはきちんと反応し、強引なほどのクレッシェンドを行います。
全体にゆっくり目のテンポの中、割と淡々と曲は進行します。(さすがに第2の国歌と呼ばれる名旋律は聞かせてくれました) そんななかでも行進曲風の曲想が現れ、ファンファーレが鳴る頃にはオケもだいぶ活力を回復し音楽に勢いが生まれました。しかしこの部分でセゲルスタムさんはスイッチが切り替わったかのようにテンポを一気に上げてしまい、「ああ、この人らしいや」と結構盛り上がっているにも関わらず音楽にはまりこむことが出来ませんでした。
演奏の方は最後で金管部隊がスケールの大きな響きを聞かせてくれたのがとても良かったです。あとは何か尻つぼみのような気がしないでもなかったです。
で、曲が終わると同時(まだ残響は残っていたぞ)に拍手が起こり、彼らの演奏を大きな拍手で讃えました。
さきのフライング拍手にやや嫌な予感を抱きながら、ステージ上でメンバーが交代するのを眺めていました。
次の曲はシベリウス最後の交響曲となってしまった第7番です。この曲はなにか人間が見てはいけない深遠なものを覗かせるような曲で、聞くには気合いを入れないといけないものですが、演奏する方もきっと同じだと思います。
構成上の特徴としては単一主題によるソナタ形式を基にして、そのなかに4つの楽章に相当する性格の音楽が封じ込められています。(暴力的にぶった切ると、主題提示部=第1楽章、第1展開部=スケルツォ、第2展開部=緩徐楽章、再現部=フィナーレ)
また私なんかはこの曲を聞くとき、冒頭のティンパニの「ドロロン」という音型が弦の上昇音型を生む(チェロとベースが半拍ずらしながら上昇していくが、そのずれ具合にティンパニの音型が見て取れる)ように、ひとつの音型が生まれると次はその音型を基にして新たなる音型が生み出されて音楽を形作っていく様を感じます。
ですからこの曲は、その起源から次々と進化し発展を遂げていったこの地球上の生命そのものを表しているような気がして仕方ありません。
そこでセゲルスタムさんの演奏ですが、全体的にスローテンポを基調とし、浮遊感溢れる音楽が展開されます。オケの音も弦を中心とした晴朗で切れ味のある音色はシベリウスに相応しいものを聞かせてくれます。それにセゲルスタムさんの持つマッシブなゴリゴリさが加わり、一種独特の風味がしました。その一方でセゲルスタムさんは楽想の転換時に急なテンポチェンジを行うので、ひたひたと流れるシベリウス独特の世界観がどうも崩されてしまうような気がします。また特に交響曲についてはその曲が持つ構成にほとんど注意を払っているようには思えず、その場所々々のインスピレーションのみに頼った音楽作りをしているような気がします。しかし寒色系でいくぶん殺伐としているもの大きなスケールと音楽的な息の深さはこの人だけが表現できる世界なので、あとは好みとしか言いようがありません。
オケの方はフィンランディアに比べるとだいぶマシにはなったもの、やはりそれほどエネルギーの放射が見られませんでした(トロンボーンによる雄大な主題もフウフウ言って吹いていたように見えた)。しかし今まで登場した主題が次々と帰ってくる第4部ではさすがに大きな盛り上がりがあり、この曲の頂点を築くことに成功していました。コーダに入ると他の指揮者ではフォルテッシモでクライマックスとなりますが、セゲルスタムさんの場合は超スローテンポで静かな余韻のなかへ消え入るように曲を締めくくったのが意外でした。
これは確かに胸にジンと来た。会場も水を打ったように静まり返ったままでした。
残念ながら、もうちょっとこの余韻に浸りたいと思った所で拍手がひとつ起こりましたが、すぐにワッと拍手が起こるのではなく、ジワッジワッと拍手が大きくなって最後には割れんばかりの拍手となりました。
20分の休憩後に本日のメインである第2番が始まりました。この曲はシベリウス後期の作品とは違い、様々な演奏スタイルへの許容力が大きいのでセゲルスタムさんの魅力を十分発揮できるものと思い、期待しました。
で、その第1楽章は極端なスローテンポと急に乱入してくるような速いテンポ、そしてそれらを並列しても大丈夫なように事あるごとに挿入されるゲネラルパウゼ、というセゲルスタム節が炸裂していました。
これによりこの曲が持つブロック構造が強調されていきます。また同時に息が詰まるような緊張感が漂い、かなり演奏時間が掛かっているのにも関わらず、あっと言う間に終わってしまいました。
その息詰まる緊迫感を保ったまま、間髪入れずに第2楽章に入りました。
この楽章は全楽章中でも最も構造のブロック化が顕著なものですが、セゲルスタムさんの間の取り方が抜群で、各主題間が断裂していることを気にさせませんでした。
この前2楽章についてはセゲルスタムさんのシベリウス全集よりもずっと素晴らしいものでした。
第3楽章の終わりからフィナーレへのブリッジではほぼどんな指揮者でも大きな盛り上がりを描きますが、盛り上げた割りには第4楽章がストンと落っこちたように始まります。しかもこの時は第1主題を全部聞かせないで、後で再現された時にやっと全部聞かせてくれるのが肩すかしを喰らうようです。ですからフィナーレへのブリッジはさらりとやってしまって、第4楽章はコーダに向かってじっくりと盛り上げていくのが宜しいかと思います。(今夜の演奏もメチャクチャ盛り上げたので、フィナーレの第1主題とのギャップが大きかった)
この楽章ではセゲルスタムさんの構成の甘さが出たような気がします。素晴らしい演奏になるとコーダ近くで第2主題が繰り返し奏される時ヒタヒタと感動の波が押し寄せて居ても立っても居られなくなりますが、今日の演奏ではそう言ったものは感じなかった。
その代わりラストではこれまた超スローテンポになり、金管部隊が渾身のフォルテッシモを決めていました。(見てて金管奏者が失神するんじゃないかと思った位) セゲルスタムさんも指揮棒を高く掲げて振り、金管が輝かしい音色でそれに応えていました。
最後の3つの音ではさらに音楽が止まる寸前までテンポが落ち、命がけのフェルマータが大迫力を持ってシンフォニーホールに響き渡っていきました。
目一杯に引き延ばされた最終和音が鳴り響くなか、威勢のいい「ブラボー」が2階席から! ……絶句。
こんな渾身のffを聞かされて、よくまああんな無粋な声が出せるもんだ、と感心しました。
今日の演奏は実際耳にする残響だけでなく、心の中の余韻までも充分噛みしめてから拍手しても良いくらい―――いやそうするに値するクライマックスだと思っていたのに。
それでも弾けるように湧き起こった拍手と次々に飛び交う歓声のなか、セゲルスタムさんはヒゲもじゃの真ん中で顔を真っ赤にさせながら聴衆に応えていました。また団員さんも半月9カ所に渡る演奏旅行が大成功に終わった充実感からか、トランペットパートを皮切りにセカンドヴァイオリンやビオラの人も互いに握手を交わしていました。表情は充実感で輝いてました。
やがてセゲルスタムさんが指揮台に上がるとスコアを手にし、会場にぐるりと表紙を見せてアンコールの曲目を告げました。
「カレリア組曲」より第3曲行進曲風に
5ヶ月前に藤岡&関西フィルで同じ曲を聞きましたが、……まあ比べる相手が悪かったかな、その旋律の瑞々しい歌い口に酔いしれ、終局に向かって確実に盛り上がっていくセゲルスタムさんの腕に感嘆しました。(シベリウスでもこういう小品ならセゲルスタムさんのアプローチは私も完全にはまり込めます)
再び拍手が爆発するとセゲルスタムさんは舞台袖に引き上げ、オケも解散となりました。
が、拍手は一向に鳴り止まず、ゾロゾロと引き上げるお客も多くいましたが、何割かのひとはステージ前や通路に詰めかけ拍手を続けていました。
するとオケのメンバーが全員引き上げたあと、ひょこっとセゲルスタムさんがステージに現れてくれました。再度大きな拍手が湧き起こりました。
セゲルスタムさんは大きな体を揺らしながら前後左右の客席に一礼をして、再び下手のドアに消えていきました。これで満足したのか会場に残っていたお客もみんな引き上げていきました。
ちょっと前までは朝比奈翁だけの現象でしたが、最近ではいろんな人に対しても見られるようになりました。私は良いことだと思います。
音楽に“間”を入れるのは日本人演奏家の十八番だと思っていたのですが、北欧の演奏家がこれだけ積極的に“間”を用いることにビックリしてしまいました。
個人的には体質に合わない音楽なんですが、あの一か八かの大博打にはただ脱帽するしかありません。すげえよレイフ。
あとは小細工なんかしないでどっぷりと音楽に浸らしてくれたら文句なしです。(自作の曲を聞く感じだとまあ無理だと思うけど)
総じて、理屈を感性で吹き飛ばされた演奏会でした。
さて次回は、未完に終わったブルックナー最後の交響曲、第9番のフィナーレを補筆した全4楽章版の演奏会です。ブルックナー好きに取ってはもう涎ジュルジュルものです。