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京都市交響楽団 「第九・愛と歓びの歌」

日時
1998年12月27日(日)午後3:00開演
場所
ザ・シンフォニーホール
演奏
京都市交響楽団/京都第九合唱団
独唱
安保淑子(S)/竹本節子(A)/若本明志(T)/田中勉(Br)
指揮
大友直人
曲目
1.ベートーベン…《エグモント》序曲
2.ベートーベン…交響曲第9番ニ長調《合唱》
座席
2階LA列19番(B席)

はじめに

私、大学が京都にあったので京交の存在は良く知っていました。当時井上道義が音楽監督に就任して非常に話題になっていました。

自分としてもコンサートにぜひとも足を運びたかったのですが、その頃は今日の米にも困る位の貧乏学生だったためとても行けませんでした。(学生には千円ぐらいでチケットを売る制度があるなんて知らなかった)

だから今現在、京交が大阪に来ると聞いて私はぜひとも行きたいと思いました、いや行かねばならぬ。

ところで京都市交響楽団は京都市の所有物なので、京都市の外へ出掛けることは困難でほとんどありません。ですから彼らが他都市へ演奏に出掛けるときは招聘元が京都市交響楽団の興行を丸々買い取るという形を取らなくてはならないそうです。(つまり自主公演では不可能ということ) 京都市交響楽団が大阪や東京でほとんど聞けないのはそんな事があるからです。

指揮の大友直人さんですが、学生の頃NHK−FMの「クラシック・リクエスト」のDJをしていました。優しく物静かな口調で当たり障りのないことを話していたのが記憶に残っています。(今、DJやってる人の方が歯に衣を着せない言い方をするので好きだ) 今回初めてこの人の演奏を聞きますが、さてどんな音楽を創造して見せてくれるか非常に楽しみです。

さて、会場に入るとクラリネットがひとり居残って練習していました。座席はステージに向かって左の一番奥。コーラスの真横、ホルンの真後ろでした。

開演時間が迫ると客席が黒々と埋まっていきます。さすが《第9》。見る見る満席になります。また客層も幅広く、中には親に連れられて渋々来たようなローティーンもいました。

オケのメンバーが揃い、準備が終わると指揮者が登場しました。長身の痩身でスマートな人だった。薄い胸板が華奢そうに見える。なんだか雰囲気が私の友人に似ていた。

「おーい、高橋くーん。元気でやってるかー」

《エグモント》序曲

エグモントの悲痛な境遇を思わせる重い響きから曲が始まる。

京交の調子が良さそうだ。弦楽器がとても充実した音を聞かせてくれている。また管楽器(倍管にあらず)もデリケートな音色を出していた。また全員が気合いの入った演奏をしている。とても好感を持った。

ホルンの押し出しの強い吹奏が威勢よい。これは指揮者の判断なのか私の座っている場所のせいかは判らず。(だってほら、ホルンってアサガオを後ろに向けるじゃない)

ただトランペットにはもうちょうっと頑張って欲しかった。

演奏については何も印象に残っていない。これを書いてる今、取り立てて目立った特徴をまったく思い出せないからだ。まあ、普通だった。

交響曲第9番ニ長調《合唱》

合唱団が入場して後ろに腰掛けた。ソリストは指揮者の後ろに座るようだ。彼らはスケルツォの後に入場してきた。個人的にはソリストは合唱団の前にいた方が良い。また入場のタイミングは、合唱は最初から、独唱もできたら最初から最低でもアダージョの前とするべきだ。この最初から聞いているというのが重要で、これがあるからバリトンの

「おお友よ、ダメだこんな音なんか! 歌おうもっと気持ちのいい歌を、そしてもっと喜びいっぱいの歌を!」

という呼びかけが強烈に効いてくる。

さて、第1楽章だがこの楽章の解釈次第でこの曲全体のイメージが決まる。1つはこの楽章が人生の苦難と格闘する壮絶なドラマとするのと、もう1つは壮大な交響世界を幕開ける一大叙事詩とする解釈だ。前者ではフルトベングラーやカラヤン、後者ではショルティや朝比奈が思い浮かぶ。またこの楽章にあるリズムを強調するかどうかという問題もある。

で、今日の演奏は私にとってはどっちつかずの印象を受けた。最初の数小節を除き、ややゆっくりと言えるテンポであったが、悠久の流れを感じるには至らず、と言ってドラマチックで劇性なものでもない。なんだか掴み所がない。

また最も気になった点では展開部にはいる所でほんの少し間を作ったことだ。変化が乏しくなった演奏で時々やってしまうのがこれで、“間”を武器にしている曲を除き(シューベルトの未完成やブルックナーの全曲)これをやってしまうことは指揮者としての底の浅さを露呈してしまっていることになる。

我々日本人は音楽に間を作ることに非常に寛容であるが、不必要な間を西洋音楽に挿入することは避けなくてはならない。

次のスケルツォだがこれも難しい。第1楽章よりスピード感溢れるものにしなくてはならないが、その第1楽章のでテンポが速すぎるとここで猛烈な速度が要求されてしまう。同様に第1楽章でリズムを強調しすぎるとこの楽章の特徴である鮮烈なリズム感が目立たなくなってしまう。

しかしこの演奏は第1楽章の調子をそのまま引きずったようなものだった。耳で聞いた感じのスピード感が前楽章と同じで、かつ抑揚のない音楽づくりだったため、まったく聞くべき所がなかった。

ただティンパニの音がきれいだったことが言える。

アダージョはとても素晴らしい音楽でこの深遠さは他の曲ではちょっと聞けない。個人的にはとても遅いテンポが好きだ。

しかしいつも思うことだが、この楽章の最後に出てくるファンファーレで金管に付けられているアクセントをどうしてみんな無視するのだろう?

フィナーレでもイメージは変わらない。

ただ最後の最後、プレスティッシモに突入してからは目の覚めるような快活さが現れて、ほんの少し溜飲が下がった。

曲が終わると拍手。熱狂的なものはなかった。ただ2人か3人ほど「ブラボー」と叫んでいたが、我が耳を疑う。あんな決算前の大売り出しみたいな大団円でホントに満足しているのであろうか? 最後にでかい音が鳴ればいいのか? それなら南港の埠頭にでも行ってくればいい。夜中になると巨大なウーハーを積んだ車が何台も並んで重低音がでかいだけの騒音をまき散らしている。きっと満足できるはずだ。

しかしこれを読んでくれているあなたはきちんと良い演奏と悪い演奏とを感じ取れる人だと確信している。いや、させて下さい。

つくづく《第9》とはその名声に違わない難曲なんだなと痛感した。

表面的な演奏効果やテクニックだけを見ていると、この曲の持つ真の姿は永遠に見えてこない。演奏する方も聞く方も一生かかってその姿を探し続けなくてはならないんだと思った。

さすがボイジャーに積まれた金のレコードに収録されている地球人を代表する曲だ。

おわりに

総じて、優等生的な演奏でした。

……優等生だあ? 何言ってやがる。芸能人(芸術家という言葉はキライ)が優等生でどうする。芸で食っていく奴はその芸が常人からどれだけカッ飛んでいるかで勝負しなくちゃならないんだろ? お笑い芸人なら笑いで、役者なら芝居で、音楽家なら音楽で、偏狂者になれ、キチガイになれ。そこまで突き詰めた者のみが持っている才能を開花させることができる。

「俺にだけしかできない音楽」をやってみせろ。「よくあるよくできた音楽」=「優等生的な音楽」だったら何もアンタが棒を振る必要はない。他の誰でも同じなんだから。

それが個性ってやつだろう? 頑張ろうぜ。俺も頑張るからさ。自分の個性って、歯を食いしばって、真っ赤な顔して、汗だらだら流しながら、ぎゅーっと胸の中で圧縮しないと輝かないものだからさ。

お、おほん。思わず熱くなっちゃった。……今回は支離滅裂ですね、すみません。

それにしても、京都市交響楽団は予想以上に良いオーケストラだった。京都以外ではほとんど聞けないというのは残念だ。聞きたかったら京都に来いということか。まあ、奈良からだったらなんとか行けるから良いか。やーい、やーい、東京モン。羨ましいだろーっ。(ひがみが多大に含まれています)

冗談は置いといて正直な話、近畿では大阪フィルに次ぐ充実度ではないだろうか?

さて29日は大阪センチュリーの《第9》です。先ほど「京交、近畿ナンバー2」と書いてしまいましたが、この考えをひっくり返す熱演を希望します。


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